宇宙生成の根源へ迫る

栗田 勇

 

       あれは、 今から20年近く前であったろうか、 建築家の大高正人につれられて、

    荻窪の通りから少し入った喫茶店へつれてゆかれた。うす暗い階段を二,三段おりる

               と大きな木製のバーカウンターがならんでいたように覚えている。

      私たちは、 そこでウイスキーを飲みながら、 お互い、なにするものぞ、と、若気の

    ラバル意識をむき出しにしながら激論をかわしていた。といっても、 とくに口論した

    わでもなく、そんな毎日毎夜を送りながら私たちは青春を切磋琢磨していたことに

               なる。

      そんな光景を、カウンターの奥の方でにやにやしながら、しかし、なにかもの云いた

    に眺めている、同じ年配の男がいた。「 やあ 」といって、 紹介されたのが、石郷岡

    敬であった。彼は、その店の経営者だか所有者だかであったが、 しかし、 彼は自

    分は絵描きだといった。その後、いく日かして、たしか、その店の隣の鉄筋の4階だか

              とうが彼がアトリエにしている部屋へ案内され、作品をみせられた。

      50号から100号の抽象画のタブローが所せましとひしめいていた。おぼろ気な記憶

    では、大胆な太い線による画面構成で、のびのびした奔放な若さが迸しっていた。よく

    覚えてはいないが、どうせ、私は、なにか文句をつけたり講釈したりしたことだろうが、

    青春とは、そうとしらず自分が絶対的な高さをもとめているあまり、 他の人たちにも過

    酷要求をするものだからである。そのようなぶつかりあいのなかで芸術家としていき

    つけてゆくには、周囲に対する気がねよりもむしろ、自らが、同じように高い目標へ

    向て激しく燃えつづけている必要がある。それがないために、つぶれていった、若き

              日芸術青年を、いま、私はいく人も思い出している。

      それから、私もまた自らの青春を追うのに忙しい日々がつづいて月日が流れていっ

     た。たまに、彼から展覧会を主催するとか、批評家と衝突したとかいう、電話があった。

    この数年は、銀座のバーなどで偶然顔をあわすことがあった。彼は彼なりの人生を築

    ているのだなと思っていた。 風のたよりに、舞台衣装芸術家のルリ・落合と名コンビを

              組んでいるという話はきいていた。

      その彼から、突然、はじめて本格的な個展をひらくからみてくれと、 例によって、 豪

     放な押しつけがましい口調のうらに、気の優しさを漂わせながら云ってきた。私は、

    彼が、だ画業をすてることもなく、描きつづけていることに喜び、また、これがはじめ

              ての個展う、彼にもあわぬ謙虚さに驚かされた。

      都合をつけて、会場へ行った。会場の壁面をうづめつくしている絢爛たる熱気が私を

    うった。しかし、私は、ゆっくりと、ひとつ、ひとつ眺めていった。 そこには、 あの素朴な

    画望の片鱗もなく、 むしろ、達者すぎるほどの練られた画面が濃密な世界をくりひ

              ろる。新しい才能の開花がそこにあった。

      彼の作品は、 一見すればアブストラクトとか、アンフォルメルということになるだろう。

    しし、 じつのところ、1950年代を賑わした、アンフォルメルは、もう少し長い目で見る

    と、 19紀の描写的リアリズムに対する反省と模索のプロセスであって、個人主義芸

    術が代とう呪縛から身をときはなつための内面への沈潜だった。 したがってその

    方向は 構成的いっても、じつは、芸術に対する批判的側面をあらわにしたもので

              あった。

      石郷岡の作品が、そのようなアブストラクトの系譜と、まっ向から異なるのは、彼は、

    そのうな自己批評、自己解体という指向性を持っていない点である。 彼の筆は、む

    しろ面的な自己肯定のこんとんたるカオスのなかから、宇宙星雲をうみ出そうとして

    必死にている。 つまり、 ものの形を解体してゆくのではなく、 形のない世界から、

              逆にものの「しるし創造しようとしているのである。

      それは、むしろ象徴的 世界 といったほうが いいだろう。 その手懸りとして、 彼は

    どうら 、東洋の、日本人の感性にしっかりと腰をすえてあゆみだしているようにみえ

    る。 とはあのいわゆる陳腐な「わび」や「さび」といわれる枯淡の世界ではない。

      〔桃山〕では、 朱に金箔がなだれこんでいる。〔幻の椿〕では深紅の大輪の花芯へ

    どこもふかく身をひそめて、 エネルギーが爆発した花びらとなって広がっている。

    一転して、 ルギーは濃縮して、 仄暗い、黄金と暗青色の不思議なドラマとなって

              巻いている〔巌感〕では、むしろ世阿弥のいう幽玄の世界に近い。

     力をふりしぼって宇宙の核へ迫った、 これらの作品群は、 その涯しない創造の力

    の未来予想させるが、 一方では、 いく分小ぶりの、タブローとしての完結性をそれ

    なりに達成しる作品〔飛鳥の宴〕、 〔室町〕、〔白鷺〕などは、 まことに魅力あふれ

    るむしろ繊細でゆきとどた作品といえるであろう。 〔白鷺〕には、彼が独りで歩んで

              きた哀しみが純粋な結晶をみいる。

      石郷岡の仕事は、 近代をのりこえるというよりも、 むしろ、 西欧絵画の原点以前

    の中世というか東洋的といってもいい、 その起源の時点から未来へ向かって世界

   の意味を求めよとしている。 彼のエネルギーと、ここに示された才能は、その成果

   を今後に強く期待させる。彼は青春の日いらい、やはり絶対的に高いものをも

   とめつづけていたことを、私めて目のあたりにして感動を禁じえなかった。

      今度、第2回の総合的な作品展をひらくというので、 彼のアトリエに赴いて、 じっく

   り早春日をすごした。 そこには、彼が今まで手さぐりに独りで歩いてきた軌跡が

   裸の姿でくりひられていた。 そのなかから一応完成度の高い作品がえらばれて

              この冊子となったわる。

      どの作品も、 すでに述べたように、 美術史的に分類すればアブストラクトというこ

   とになが じつは逆に原始のなかから形が産まれ出ようとするまさにその瞬間を造

   型しているで、いわば、シンボルフィギュラーティーフとでも名づけたい方向を示し

              ている。私は石岡の作品をつぎつぎと眺め歩きながらその独自性に目のさめるよう

              な想いであった。根的に彼の世界は出発がちがっている。    

      西欧の19世紀後半の印象派以後の絵画がゆきずまったとき、 彼らは、その回帰

              の手として東洋の美術から、3つの要素を新鮮な驚きをもってとりあげた。

     ひとつは当たり前のことのようだが、絵画における二次元性平面性である。はじめ

   からは平面にきまっているではないかと人々は思い込んでいる。 しかし、 じつは

   西欧近代絵画の歴史とは、この二次元平面に、どうして三次元の立体性・空間性を

    盛り込み、表現すかという不可能を可能にするための魔術を生み出す苦闘の歴史だ

    ったといってよい。 そのために遠近法も生まれ、 キュビズムも試みられた。 しかし、

    その解決は、いぜんとしてつかないまま20世にいたった。そして、ようやくつかんだ解

    決法とは、コロンブスの卵のようなものだった。それは、二次元平面の絵画は、なに

    も立体感を表現しなくてもいいではないか、そのまま、 「面」として、終止表現すれば

    よい。どのような空間も物体のドラマも、二 次元に還元してしまえばいいということだ

     った。 そして、東洋の美術、わけても日本の伝統絵画は苦もなく、この問題を解決し 

    ていた。 それはエジプトや古代オリエントの絵画もそうであった。そしてオリエントの

     影響の下にあった、中世ロマネスクの絵画も二次元は二次元として受けとめていた。

       なぜ、それを近代に入って立体化することに熱中したかというと、そこには大きな

    世界観の転換が背景にかくされていたのである。つまり、近代とは、孤立した人間中

    心に世界を見ている。 それにたいして、 古代も中世も東洋も、人はむしろ共同体の

    なかにあって、 そのつながりを通して世界を見ていた。 だから立体のものを歪めて

    平面にうつしても、 そこには共通の了解が成立していたのである。 この変形による

    共通感覚の言語とは、 言葉をかえれば装飾ということができる。 装飾性とは感覚の

    言語であると同時に共同体の言語だからである。 つまり、平面の二次元的な表現は

    とうぜん絵画に強い装飾性をもたらすのである。 日本の絵巻物の大和絵や浮世絵、

              また、狩野派の障壁画などはまさにその実現に他ならない。

      石郷岡の作品も、 初期のものは、50年代流行したアブストラクト=抽象派のおず

    おずした習作からはじまっているが、 最近の作品は、そのような三次元への未練を

    すてきって、 まさに絵画平面を二次元平面として、 思う存分生かし、 おのれの世界

    の輝きをぶつけている。 たとえば、作品「流転・その一」 さらに 「流転・その2」では、

    じつに緊密な平面が織りこまれていて、その深さはほとんど宇宙の輪廻転生の業の

              絢爛たる苦悩さえ感じさせる。

      この東洋の原点としての平面的二次元性、そして、「王道」などにみられる装飾性

   をそのままなんのためらいもなく直感的に共通言語としているのが、 石郷岡の世界

              の第一の独創性である。

     第二に、 西欧近代絵画が、 東洋から学びとったのは、「TRACE」である。東洋の

    書や水墨画における筆づかい・・・痕跡である。 絵画は、 ものの形を画きおわれば、

    それまでその筆づかいの跡などはあとかたもなく消えなければならないとされていた。

   絵はそのもの自体に完全になり切らなければ、 ものを写したとはいえないからだ。

    それが常識だった。 ところが、 東洋の水墨画は、 おどろいたことに筆のかすれや、

    ためらいなど、 絵筆をふるっている人間の感性のほうも、 痕をわざと残し、 むしろ、

    そこに〈描きつつある〉絵の生まれ出る瞬間を見る者に作者と共有するように仕掛け

    ている。 人は水墨画からただ目にうつる風景としてではなく、真実を探している人間

    間の気分、 描いているその人間の感動をもあわせて受けとめるのである。 東洋の

    美の運動性とは、じつはこの痕跡=トラースという秘密によってはじめて表現される

               のである。

      じつは、絵画とは本来、平面的空間であり、時の流れから切りとられた永遠の静

    止した場面である。ところが東洋画においては、描かれつつある時間の流れのなか

    に、人をさそいこみ、 時の流れを実感させる。 この時とともに動くという生命感こそ

               じつに近代絵画の革命であった。

      石郷岡の作品には、 最近作に見られる自由かったつな筆づかいによる流動感、

    ダイナミズムがはっきりと表現されるようになった「墨跡」は その意図をはじめから

    あきらかにしているが、 たとえば「春の嵐」 「イグアナの滝」 「カトレヤ」など、じつに

    のびのびと筆が動いている。それにエネルギーがほとばしっているのは 「赤壁その

               二」「黄壁」などの作品である。

      さて、近代西欧絵画が東洋に発見した第三の要素はSIGNEスイーニョである。

    スイーニョは 「しるし」 「特徴」 「前兆」などと訳されるが、 いわばかくされた意味の

     記号である。 象徴といってもいい。記号といってもいい。ただし、 ある巨いなるもの、

    複雑きわまりないものの徴しであり、 兆しである。 日本の絵画は、たとえば、禅僧

    の頂相などで画面に平気で詩をかきこむ。 話し言葉の擔う意味と画面が溶け合っ

   て、ひとつの自然の巨大な雰囲気を、 そして時には悟りという真実の世界を暗示

   できると信じているからである。西欧画では、油絵の画面に詩の文字を書きこむこ

               とは不純とされている。

      しかし、徴し、意味とは、かならずしも言語によるばかりではない。宇宙が形を成

    す、その核となるような象徴、 その暗示的図形、 あるいは記号で示されることも多

    い。水墨画で、点ひとつ、線一本、仙涯では□○△が宇宙の徴しとして扱われてい

               る。図形に深い意味をよむことも重要である。

      私が石郷岡の作品を通じて、もっともひかれるのは彼の画面の平面的処理、装

               飾性、ダイナミズム、この3点がつねに追求され表現されていることである。

      この核となる中心は、先にふれた「幻の椿」では太陽の中心の黒点のようにエネ

    ルギーにみち、「カーニバル」では二つから三つへと分極しつつある。 「氷壁」では

    中心の三極が見事な均衡をたもっている。「葉脈」は繊細なマチエールにかこまれ

    て、 生命の調べのような割れ目が三つならんでいる。 この中心へコンセントレー

     ションする力が彼の生命力の根源と一致しているのであろう。そして他の作家には

     ない、宇宙的な爆発へのきざしを予感させる、この魅力に彼の真骨頂があると私は

               みる。

      私は、ゆきずまった西欧画が東洋から学んだ三大要素をうけて、石郷岡の作品

    は、じつは、この三大要素によって成立している。だが、くりかえすが、この三の跡

    なる要素を、彼は反省と苦慮の結果からえらびとったのではない。むしろ自己の日

    本人としての本能の根源へと思想的に身をくぐらせ、 そこから自ずからして汲み取

    ってきた世界なのである。その意味で、石郷岡の作品の世界は、 いわば伝統的な

               東洋の血をまっとうに受けついでいるといえる。

      もちろん、彼自身の画歴のなかで、さまざまな模索と迷いと学習がこころみられた

    ことはいうまでもない。 そして、彼が強い親近感を抱いたのが、おそらく宗達、光琳

    につながる琳派であることは、 そのきわめて洒脱な粋といっていいような画面の処

    理からうかがえる。 また、 桃山期のはでと濃密ないわば縄文文化的エネルギーを

    受けついであることは、その画面の大胆な構成、わけても金と銀という、色彩ならざ

               る装飾への愛好からも充分にうかがえる。

      おそらく彼は、この日本のなかの、「はで」と「いき」の世界、また、その底にひそむ

    「わび」と「さび」の抒情を両輪として、仕事をすすめてきた。今後は、このあまりにも

    多様へと華ひらいた才能が、どのような一点へ凝集され、さらに力強い世界をつくり

               出すかが大いなる楽しみなのである。