1991年21PRINTS(21世紀版画)8月号掲載

ぜいたくな質感の奔流に思う

ー石原慎太郎との対談ー

 

 

 

             石 原 ・・・  石郷岡さんの絵はまったくぜいたくな絵ですね。そのこと自体が非常に珍しい。特別な

                   リキッドを使ったあのマチエールも珍しい。実は僕はあれをもらいまして自分でもやった

                   のだけれど、いろいろ自分なりの新味も出せる。石郷岡さんの若い頃の絵はなかなか

                   一生懸命でいいな。奥さんの陰の力もあったのでしょうが、非常にぜいたくな絵で、それ

                   は大事なことです。日本の絵描きは全体に痩せているからね。むこうの美術の教科書

                   を見たらポール・ジェンキンスよりも石郷岡の方が大きく載っていたな。・・・僕も10代に

                   は随分絵を描いていたね。でも高等学校から絵をパッとやめちゃったけれど。またこの

                   頃、自分のアトリエでやっていますけれど。絵は今のほうが技術的にうまくなったけれど

                   イマジネーションは十代の頃にかなわない。それでも絵は描いていますが、いいもので

                   す。僕の息子も今ニューヨークに行って絵描きになっていますが、なかなか良い絵を描

                   いていますよ。僕は息子にいろいろ言うんです。妙なドアのイメージについて言ってやっ

                   たら、すぐにはアドプトしなかったけれど抵抗しながら彼なりの解釈でやりだして、今、不

                   思議なドアを描いていますよ。それはすごく面白い。・・・やっぱりイメージは若い頃の方

                   があったね。石郷岡さんの絵っというのはそういうイメージというか、あのマチエールが

                   だんだん変わってきたし、とにかく良い絵が多い、豪華でね。花を描いた作品は原民喜

                   の原爆をテーマにした詩を思い出すけれど、良いですね。

 

           石郷岡 ・・・   途中でどうして絵をパッとやめたの?

 

         石 原  ・・・    絵をやめたのは面倒になったから。僕が若い頃に石郷岡さんみたいな人が先輩にいた

                   らね。僕はコンテンポラリーがその頃から好きだったけれど、今なら極端に即乾性のも

                   のを使って後に他の色を塗っていくことが出来るわけで、あの頃はテレピンでもなお揮

                   性が少なくて絵が乾かないものだから、下塗りをしてじっと待っているわけね。ものがな

                   かったし、お金もなかったし、親父はいろいろなことをしてくれたれどそれ以上のことは

                   出来ないから、キャンバスにたくさん一度に描くわけにはいかないでしょう。今、タブロー

                   があまり残っていないのは、一回描いた絵を半年経つと飽きちゃって削ってまた塗って

                   そのうち最後の絵を描いている時に、おれ何でこんな面倒くさいことをしなくちゃいけな

                   いんだろうと思ったら、とたんにいやになって絵を描くのをやめなしたね。それでも結局

                   忘れきれずに、もの書きになってもまた描いたりして。・・・やっぱり石郷岡さんのマチエ

                   ールっていうのはなまけものにはいいね。なまけものにはすごくいい(笑)。 すぐその場

                   で絵が出来るから。それは石郷岡さんの場合は一生懸命重ねていきますよ。僕は即興

                   的にやるの。だから全体のイメージがすぐ出来あがるでしょう。その場でね。そこからま

                   た後に加えていきますけど、普通の油絵じゃ・・・。

 

          石郷岡 ・・・ やっぱり頭の質の良い絵描きはテクニックが違ってきます。それから感性があるでしょう。

                   感性の良い人間はやはり違いますよ。それからもう一つ。慎太郎さんが言ったようにイマ

                   ジネーションの問題。やはりものを見て描く作家と、僕の場合はものを見ないで・・・・僕は

                   イマジネーションをキャンバスに表現し、そのフォルム、色彩からより以上の完璧なイマジ

                   ネーションを追求し、弁証法的に完成させていく・・・そういう方が本当の良い芸術作品が

                   できるでしょうね。そのへんが対象物にこだわらないということね。 だから僕の絵画には

                   東洋的な美学が入ってくるわけね。 九鬼周造の美学に僕が非常に共感するのは、日本

                   の芸術のある真底を見抜いていると思うからです。 結局ヨーロッパの絵というのは、光と

                   影といいますか、それから中国の水墨画というのは濃淡なんです。ただそれだけではな

                   い精神的なバックボーンの一つのフィクションを絵に作っていかなければいけない。そう

                   いうものを、 実存するというそのものを描いていってそれを多少デフォルメしただけでや

                   ると、全然ものを無視しながら ・・・ 空間構成の考え方というのが問題になるわけです。

                   ・・・僕の絵の本質は濃淡とかいわゆる空間構成が、僕の場合は透明空間と言って、今

                   までに東洋西洋にまい空間をどういうふうに絵画に埋め込んでいくかということがテーマ

                   でして、要するに僕の空間の追及が従来の絵描きとは違うということです。 それは印刷

                   では皆さんわかりかねると思います。 僕の本物を見れば僕の言わんとしている空間が

                   どこにあるかということです。今ヨーロッパで取り上げられているザォ・ウー・キーは、あく

                   まで水墨から来ているわけです。ザォ・ウー・キーの絵というのも、モネ、マネとか、フォル

                   ムとかはターナーの影響があったわけで、ザォ・ウー・キーが僕の展覧会を見にきてから

                   彼の絵がここ最近変わってきた・・・僕の透明空間はそう誰にもやれるものではない。今

                   までは具象的な水墨画的なタッチだけの仕事だった。それがここに来て彼の今年新しく

                   出した画集を見たらフォルムが入っている。 僕に共通したものが出てきたので、やって

                   来たなと。ポール・ジェンキンスも僕の絵を見てから変わってきたんですよ。 フォルムは

                   ある程度まねは出来ても、透明空間の技術的なことというのはなかなかそう簡単にまね

                   出来ることではない。来年、パリ市主催でバガデル公園のトリアノン宮殿で三ヶ月やりま

                   すから、相当にまた別の反響がでますでしょうし・・・今でも相当にファンからいろいろな

                   手紙が来ますしね。今度、例のお城に彫刻庭園を作るんですよ。これはもう世界中のを

                   集めて、箱根の彫刻の森の三倍ぐらいの大きなスケールのものですから。・・・たとえば

                   垂れ流しの手法でやって垂れ流しじゃ単なる垂れ流しであって、一つの偶然性というの

                   は、九鬼周造がたまたま偶然性について、偶然性の中には六面体、八面体があると言

                   っているけれど、なかなか鋭いことを言っているなと思って読んでいたけれど、そういう

                   空間構成が僕にはあるわけですよ。

 

           石  原 ・・・ なんか変な人だね、石郷岡さんて。僕は変な人って好きだから。(笑)

 

           石郷岡 ・・・ 東洋はどちらかというと物そのものよりも精神文明的なものがあるわけですから、そう

                   いうものを絵画に日本の芸術が挑戦して持ってこれるかということです。だからその点

                   での先駆けとして、僕は岡田謙三というのを高く買います。幽玄ニズム、詫、寂というの

                   を根底に置いて持って来ているわけですから。日本には詫、寂以外にいわゆる障壁画

                   という絢爛豪華で装飾性という面で立派な芸術があるわけです。僕はその両面を追及

                   しているわけです。だから僕の絵には相反するような二つの矛盾をアウフヘーベンして、

                   東洋と西洋とを・・・たとえば印象派の人達は日本の浮世絵に学んだわけで、今後ます

                   ます日本というのはそういういう意味で、日本の伝統とヨーロッパの伝統をうまく踏まえ

                   て持っていけば、日本には素晴らしい作家が出て良いわけで、その先駆けは僕になる

                   でしょうけれども(笑) ・・・日本ではものを写実的に描くことがオーソドックスないわゆ

                   る芸術教育であり、それが言い尽くされてきているから、どこかデフォルメすれば芸術

                   だという、そういう単純な考えだけではだめだと思うんです。だから絵画にどういうよう

                   な哲学が入って来るかが問題だと思うんです。そういう点で九鬼周造を読んでいて非

                   常にわかりやすくて、現象学から構造主義に橋渡しされる辺りと偶然性の問題の関連

                   なんかなかなか良い点を突いていると思いまして・・・特に「いきの構造」というのは、日

                   本人の「いき」というのはヨーロッパにはないものですから日本からああいうことを理論

                   付けるということは、僕もいずれそういう理論体系にするつもりですが・・・そうなってくる

                   とヨーロッパの人達もシャッポを脱ぐでしょうね。だから、僕の絵を見て、これには禅が

                   あると、禅とはなんぞやというと本当にどこまで知っているのかわからない。鈴木大拙の

                   フランス語に訳したものがあるから多少禅というものを概念的にはつかんでいるでしょう

                   けれど。 だけれど何かそうしたものにあこがれているわけです。 しかし、禅の奥には

                   「いき」の構造があり、偶然性があり、透明空間が実存するというわけです。・・・僕はあ

                   る意味で芸術家というものはその時代の一つのフィロソフィー的なものを絵画的テクニ

                   ック、記号を作り出して表現していくしかないと。それがなくてただむこうのコピーだけを

                   やっているのじゃ、日本の絵描きはいつまで経っても赤字なんですよね。印象派のまね

                   をするけれども、原点は日本の浮世絵にあるわけですから。・・・僕は、今後版画をど

                   どん世に広めたいですね。

 

           石  原 ・・・ どんな版画を?

 

           石郷岡 ・・・ この間五十一種類作ったでしょう。お見せした・・・。

 

           石  原 ・・・ あれは版画ではないでしょう?

 

           石郷岡 ・・・ いや、僕はあれを現代の版画だとしている。 結局印刷機がない頃はリトも木版もいろ

                   いろあるけれど、現代これだけハイテクになってきて、それでただ大量に出来るから価

                   値がないというのはおかしいと思う。要するにタブローを正確に写せるものといったら今

                   の印刷機は非常に優秀んわけです。印刷の色をもっと上手に使いこなしていけば、 僕

                   の版画作品のようなものが出来てくる。今それにプラスして立体的に表現できる印刷機

                   もありますよね。ただマチエールがどこまで出るか・・・現在漫画を描いているリキテンス

                   タインという作家がアメリカにいますでしょう。あれなんか大量生産でどんどん造っている。

                   その点日本ではコレクターというのは、銅板やリトでなければ版画ではないと、それはお

                   かしいと思う。

 

          石  原 ・・・  今度個展をするんです。石郷岡さんのマチエールを僕がもらったんですが 、それでデベ

                   ロップして水で使い出したのは僕だけだと思いますが・・・僕が油で即興で描いたのを石

                   郷岡さんが気に入って、それをいじらなくっていいとと言って、わざわざ額に付けてくれて

                   持って来てくれたの。一つは玄関に飾って・・・なかなかいいですよ。もう一つはちょっと物

                   足りないからいじったら・・・もうだめ。

 

          石郷岡 ・・・ 今、フランスでは海岸の岩場での海水にいろいろな色を流して、 色が浮いているのをキ

                   ャンバスにすくって表現するというのをやっている・・・だけどそれは古めかしいマーブル

                   のアイデアで、一寸したショーならいいけれど、作品としてはいいものは出て来ない。

 

          石  原 ・・・ 石郷岡さんのマチエールは三分の一ぐらい偶然性があるでしょう。陶芸ほどではないけ

                   れど偶然性があって、それでいて自分でトリムも出来るし・・・面白いですよ。

 

          石郷岡 ・・・ 偶然性にはいろいろ問題点があるわけですけれど、偶然性を必然性にどうやって持って

                   いくかですよね。たとえば筆で色を塗ったって、筆の使い方によっていろんなマチエール

                   ができてくるわけで、ナイフでもそうです。これはある意味で偶然性だけど、その偶然性

                   をもっとどういうふうに持っていって必然性にするか、偶然でやりっ放しにしたって、たま

                   には一回ぐらいいいものが出来るかも知れないけれど、そうきちんと決まったものは出

                   来てこないわけです。だからそのへんを感性でどうまとめていくかという美学がない限り、

                   絵は本当のものにまとまってこないでしょうね。

 

           石  原 ・・・ 今の日本の絵描きには美学が欠けていると思う。ディシプリンのない絵ばかりだから。

 

          石郷岡 ・・・ 僕はよく銀座のギャラリーを廻りに行くけれど、ものまねが多すぎる。だから、芸術性を

                   どのへんにおいているんだろうかといつも思う。偶然性をうまく自分でコントロールして必

                   然性につくりあげていくということですね。

 

           石  原 ・・・ 必然と感じさせるわけですか?

 

          石郷岡 ・・・ フィクションですから、絵画というのは。 たとえば東洋と西洋の庭を見ても、日本の庭と

                   いうのはすごい芸術性があると思うんです。 なぜかというと西洋というのはみんなシン

                   メトリーで黄金分割的なやり方の庭ですよね。だけれども庭を作る目標というのはあく

                   までその小宇宙から大宇宙につながる王道であると、そういう考えで庭園を造っていっ

                   ているわけです。日本の場合は、自然のごとく無限性が存在する芸術的美しさを全部

                   集約して、後は借景を持ってきて一つの大宇宙につながるというものですから、その点、

                   シンメトリーとか黄金分割的ではないですから、見る角度で非常に変化があるわけです。

                   ところが幾何学的なものというのはどこから見たってある形はきまっているわけだから、

                   そう言う点で日本の庭の造形そのものも、非常にそこにフィクション的なものがあると。

                   それがたとえば竜安寺の庭になると、あれは石というけれど一つの彫刻ですから、だか

                   ら彫刻的な石を探してきておうわけだから、その点が僕は日本庭園というのは素晴らし

                   いと思います。 だから僕はフランスにヨーロッパにはないような一番大きい日本庭園を

                   僕の城に作ろうと思った。 それも僕自身の目で日本の伝統を踏まえて。何十年と日本

                   の庭園を勉強してきていますから。 ・・・なかなかフランス当局の地目の現状変更の許

                   可が出なくて未完成なのですが。

                  

           石  原 ・・・ ちょっと西欧庭園のために弁護すると 、シンメトリーだってベルサイユなんかは、正面

                   からはずれて見ればそれなりに変化があるでしょう。ただ日本の庭の場合は、最初か

                   ら立体で歪んでいるからおもしろいですがね。

 

          石郷岡 ・・・ シンメトリーが悪いとは言わないです。あれはあれでいい。ただ深さととかいうとやはり・・・。

                   僕はシンフォニーというのを非常に重要視しているんです。シンフォニーというのは音と

                   音の集約ですから。演歌やシャンソンというのは言語という記号があってそれに合わせ

                   た音学でしょう、ドラマチックにどう持っていくかという。ところがシンフォニーは、音楽家

                   自体が自分のイマジネーションで作り上げている。 音だけをたたいていって。絵描きも、

                   色彩、カンバスという一つの道具を使って・・・僕の絵も交響曲だと言われる。だからそう

                   いう造形の考え方が絵描きにどれぐらいあるか、 ただデフォルメしたり遠近でみせたり

                   濃淡でやったりと小手先だけで苦労している芸術家が多すぎると思う。僕は僕独自の理

                   論で作りあげているわけです。ただむやみやたらに描けばいいというのではないですよ。

                   そうかと思うと写実的にさえうまければ芸術家かと言えば、それは昔は写真もない時は

                   写実力のある作家ほど価値がありましたよ。しかし、価値観はモラルと同じように時代に

                   よって変わるわけで僕はいつの時代でも変わらない普遍妥当性の価値観を追求します。

                   そのへんをよく把握していない作家が多いんじゃないかと思う。自分の美学なんですよ。

                   これが自分の美なんだという。

 

          石  原 ・・・  でもやっぱりマチエールって大事なんだね。僕が石郷岡さんで感心したのは、平面の上

                   でのわずかなグラビティーも利用して絵の具を流していくああいうことの即興性は面白い

                   ね。予期しないものがある。やっぱり情報が氾濫して情報としての価値が相殺されてくる

                    と、最後に因るところは感性しかないんですよ。石郷岡さんの良いところは、この人の感

                    性はずっとすたれずにあって、その感性をたやさずに開拓して維持しているということ、

                    これは大事なんだね。