1990年 ”コネッサンス・デザール”誌

                                   6月号より抜粋

             宇宙生成大爆発の画家   

                                   アンドレ・パリノ

 

   

                        「 偶然というものはない。それは、この世で最も気高い威厳である。」

                  と、フリードリッヒ・ニーチェは書いた。 確かに、出来事は、ある一続きの

                  結果として捉えなければならない。 あたかも気泡が虹色に輝くように、出

                  来事の意味が輝き、やがて破裂するのだ。 かくして、画家石郷岡がフラ

                  ンスに到来し、 ノルマンディーのアンリ4世時代の城に居を構えたことは

                  特別な注目に値する出来事である。独学で絵を学び、描く業を天才的に

                  実践する熟練にかけては最高の水準にまで到達し、 日本の伝統と現代

                  性の最も奥深い深淵に行き着いたことは、この典型的な例だ。銀行にも

                  勤めたことのある鉄鉱山所有者の息子であり、現代的意味において、本

                  物のサムライである。

                   この人物は、敢えて言わせて頂くと、例外を想像し実現することを許した

                  この巨額の富に負けず劣らずの個性を持っている。しかも、その作品と同

                  じく、実行も簡単明解だ。 東洋の偉大な真理を我々に語り掛け、その証を

                  示しつつも、地球規模で、しかし自己存在の信憑性を否定することなく、明

                  日の様式を粗描するところまで、その行動は広がる。このようなコスモポリ

                  タン的行為の模範例が、この人物なのだ。

                   西洋が大アジアの影響に接し、受け入れるたびに、救済のきらめきが起

                  こった。 私が思い起こすものは、ただ単に、絹の道を辿って伝わった羅針

                  盤、紙、能面、火薬、麺類など、 西洋を豊かにしたあらゆる「発明」だけで

                  はない。我々の視野を転換させた価値観の伝授もある。

                  同じように、印象派の時代に、筆致のためやいの中に芸術家の存在を発

                  見したのは、東洋の水墨画に負うものである。ここでは、想像する人間の感

                  性の震え、真実の震えが、まるで地震計測のように跡を留め、 それが作品

                  の力となっているのだ。 東洋芸術は、二次元の空間が、まず第一に、時間

                  の運動性と流動性の証拠であり、そこに、我々の造型芸術の現代性のあら

                  ゆる表現が成り立ったのだということを、我々にはっきり示してくれた。そして

                  日本の水墨画の中で宇宙を表す記号は、西洋の豊かな象徴体系の誘因だ

                  ったことも我々は知っている。

                  彼の友人、栗田勇は、石郷岡の絵画には人間の創造性をよみがえらせる

                  ことのできる宇宙的ダイナミズムがある、と考える。いずれにしても、明白な

                        ことは、この芸術家が純粋な人だということだ。あるヨーロッパ超前衛のスタ

                  ーが、完全に市場に搾取されていることを悟り、画業を棄てて不動産で身を

                  立てる決心をする時代に、競売史が証券取引仲買人に姿を変えてしまった

                  時代に、自分の作品を売ることを拒む石郷岡は、清浄な空気を送り込む。”

                      金持ち”であることが精神の行動範囲を縮めることなく、それどころか、”金

                  持ち”であることが彼にまっとうな意味を授ける。それは、市場の第一人者と

                  もなり得たと思える巨匠が体制と決裂したことの意味深さである。

                  とは言うものの、彼の作品が、最も鋭い幻想と、自己に対する探求の厳し

                  さ以外は、何の束縛もなしに、中心から外れて周辺に広がっていったことに

                  ついて無関心ではいられない。石郷岡は、自分の造形手法に対する評価を

                  知りたいと願い、 友人に個展を開催することを頼んだ。 それが、 ピエール・

                  カルダン。パリで自分の場所”エスパース”を提供したのだ。そして、石郷岡

                  は、自由気儘に、ピエール・レスタニ、マルチーヌ・アルノー、そして、この私

                  にまでも意見を述べるよう招いてくれた。この逆説的状況ゆえ、彼の稀にみ

                  る傍若無人ぶりが意味をもつのである。

                   石郷岡の手法の構造を成すシンメトリー、遠近法、黄金分割も、日本芸術

                  の真髄も、そしてそれに活気を吹き込む宇宙の息吹も、そのいずれも私の

                  心に喚起されない。むしろ、彼が真の意味で”達人の師”である、価値なき

                  ものから価値あるものを生み出す知的芸術的昇華、純化、微妙精緻な分析

                  とも言うべき錬金術が思い起こされる。

                   彼の作品の透明感、またその逆に亀裂の風情、色彩の炎、植物と鉱物の

                   ”中立地帯”に位置する色斑の謎めいた神秘、あるいは力強い金と黒のハ

                  ーモニー、鏡のような漆面、それらのものを人々は賞賛するだろう。また、ピ

                  エール・レスタニが明言したように、50年代の抽象と抒情の系譜、日本の

                  遍歴画家の伝統から出た現代手法の中に石郷岡を位置づけようとするだろ

                  う。

                   しかし私はむしろ、彼は、作品の一つ一つを構成するるつぼの中から、彼

                  が生成する知的芸術的昇華の化金石を見い出すように誘っているのだと言

                   いたい。いとも自然に、自動的に表された結果のように見えるこの芸術は、

                  実際は、長い生成過程の開花であり、創造的直感から生み出され、存在の

                  信憑性の根源で滋養を得て、”生み出す”という科学が完成され、花開いた

                  ものである。それは、思考と生命の可能性を発見するという意味においては

                  実存的絵画なのである。

                   石郷岡にとって、問題となるのは再建することであろう。それは、地球的規

                 模に膨れた現代社会の中で細分化された人間を、再創造することである。ノル

                 マンディーの地に魂を埋めるべくフランスの古城を買い取ったのとちょうど同じ

                 ように、彼の色彩の点と線は、四方に散逸した真実を記録し、そこに複雑さと

                 力の線を復元せんとしているのだ。彼の手法はひとつの苦業だ。作品の一枚

                 一枚が、今にも起こらんとする火山大爆発の効果を伝える反響を映し出す画

                 面であり檻であるかのようだ。叙情的抽象の手法を超越した予言的絵画、誕生

                 する世界の地源へと我々を引きずり込む絵画、そしてこの世紀末の劇場となる

                 であろう惑星の生成大爆発”ビッグ・バン”の絵画なのだ。

                      石郷岡は賢者の石を探求し、至高の霊感で価値なきものに最高の価値を与

                 える錬金術の秘法を有する。相対する世界の境目で、新しい真実を告げる神の

                 恩寵を声を聴かねばならない。移り行く人生を理解しようと模索する我々すべて

                 にとって、日常の地平線を越えて輝く太陽が未来の展望を浮き上がらせる光の

                 力を、彼が見い出し、我々に目を向けさせてくれているのだ。さあ、明日を夢見

                 るとしよう。